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Chocolate Days エッセイ風短編小説「彼女のチョコレート」リリー・フランキー

エッセイ風短編小説

彼女のチョコレート

リリー・フランキー

 彼女は、僕の部屋に来ると、いつも、フローリングの床に自分の鞄を置く。
 散らかって埃の舞う床だから、こっちに置けばと、僕は椅子やテーブルの上を指さすけれど、もう何年も決まって、そこにしか置かないし、ひとたび家に来ると、鞄の中から、スマホですら取り出すことは少ない。
 そのように、どこかがいつも遠慮がちでありながら、なにかがとてもおおらかな彼女は、ほとんどの時間を微笑んでいるが、ほとんどと言っていい程、喋ることはない。極めて無口ではあるけど、照れ屋で明るい人だった。

 そんな彼女に、今晩なにが食べたいかを聞き出すのは難しい。自分から何を食べたいと言うことは一度もないし、問い詰めると当初は決まって「なんでもいい…」と小さな声で言う。いずれの話の中で「なんでもいい…」の返答はお互いの中で禁止事項になり、和食と洋食。お出掛けと出前。などといった二者択一方式となった。こう聞きかじると面倒くさい人と思われるかもしれないが、そう思ったことは僕には一度もなかった。その言語化できない穏やかさが彼女の性格であったし雲のような果てしなさを感じる魅力だった。

 そんな言葉の世界とは距離のある彼女だが、僕は、彼女ほど美味しそうにものを食べる人を他に知らない。最初のひと口を口に運んだ時に、彼女からこぼれる「おいしい」の言葉。その時の、一瞬溢れる表情。一片の偽りもないその状況を見ると、僕は幸せな気持ちになった。

 ある時、いつものように床に置いてある彼女の鞄の横を通った時、トートバッグの口から、本やポーチに紛れて、チョコレートの箱を見つけた。飲みかけのペットボトルのお茶と、口の開いたチョコレートの箱。彼女が鞄からチョコレートを取り出して食べている姿を見たことはなかった。そして、僕の家にはあまり、甘い物を置いてない。

彼女の鞄の横を通った時、トートバッグの口から、本やポーチに紛れて、チョコレートの箱を見つけた。

「チョコレート、好きなの?」。鞄を指さして、何気なく尋ねた僕に、彼女は驚いたような、明らかにバレた、というような顔をした。
 その顔がとてもかわいくて、おかしくて、それは彼女に限らず、女心というものを表情にしたらこうなります、というものだった。
 聞けば、ほぼ毎日、チョコは食べているのだという。最初はそれを何気に隠していた彼女をかわいいと思って見ていたのだけど、もう何年もそれに気付かなかった自分に対しても、物思うこともあった。彼女の知らない部分や日々。好きなもの。彼女が気を使っていること。彼女の照れくさいと思っていること。家で甘い物を口にしていない僕を見て、いつも彼女は遠慮していたのだろうと。

 彼女が無口な分、僕は一緒にいる時、努めて喋ろうとしていた。余計なこと、言わなくていい事、無神経な冗談。言葉はいつも、後悔や、悲しみの種になる。それは足りていても、足りていなくても。

 鞄の中のチョコを見つけて数日後。駅前のチョコレートショップで、少し贅沢なチョコレートの詰め合わせを買った。連絡をして、彼女は家にやってきた。いつものように、ドアを開けると何も言わずにただ微笑んで、脱いだ靴を揃え、鞄を床に直接置いてソファーに座った。僕は、仕事先で貰ったからと言って、彼女にチョコの箱を見せた。僕たちはお互い照れくさがる。

 指輪のケースのように彼女に向けてチョコレートの粒が並んだ箱を開く。小さな声で、わぁ…、と言ってもっと微笑んだ。もう女心の照れはなく、本当に嬉しそうにそれを眺めた。ひと粒指につまむと口に運び、目を瞑り、嚙みしめるような表情をしたかと思うと、その表情筋を緩めながら、ゆっくりと吐き出すように「…おいしい…」と呟いた。
 

 この顔が見られるなら、毎日買ってあげていればよかった。そして、もっと大切なことを彼女に伝えておけばよかった。

指輪のケースのように彼女に向けてチョコレートの粒が並んだ箱を開く
リリー・フランキー

撮影/HIROSI NOMURA

リリー・フランキー

1963年生まれ、福岡県出身。イラストやデザインのほか、文筆、写真、作詞・作曲、俳優など、多分野で活動。初の長編小説「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は06年本屋大賞を受賞、また絵本「おでんくん」はアニメ化された。映画では、『ぐるりのこと。』(08/橋口亮輔監督)でブルーリボン賞新人賞、『凶悪』(13/白石和彌監督)と『そして父になる』(13/是枝裕和監督)で第37回日本アカデミー賞優秀助演男優賞(『そして父になる』は最優秀助演男優賞)など多数受賞。第71回カンヌ国際映画祭では、主演を務めた『万引き家族』(18/是枝裕和監督)がパルムドールを受賞。

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わがままと甘え。よそよそしさと初々しさ。

ニックネーム:ぴよこ

わがままと甘え。よそよそしさと初々しさ。馴染むことと礼儀を保ち続けること。謙虚さと親しみ。遠慮と思いやり。両者の間にあるその「あわい」を思いました。 同じチョコレートでも、彼女が自分で買ったチョコレートの味と、自分のことを想ってプレゼントされたチョコレートの味は、きっとおいしさの種類が違うことでしょう。なんだか恋をしたくなりました。

二人の空気感が目に浮かびました。

ニックネーム:ビビアン

二人の空気感が目に浮かびました。大人の男女の恋愛なんだろうなと思いながら読み進めていきましたが、ふとした時の彼女の可愛らしさ、不器用だけど優しい彼の様子がとても身近で、ありふれた情景の中にもこんなにあたたかいエピソードが実は溢れているんだろうなと気づきました。そんな何気ない幸せな瞬間に大好きなチョコレート、大切な誰かに、頑張った自分に…素敵なエッセイありがとうございました。

エッセイを読ませていただいて涙が出ました。

ニックネーム:かしかし

エッセイを読ませていただいて涙が出ました。
今お付き合いしてる彼女と凄く被ってしまって…
自分のことは恥じらいからなのかあまり出そうとしないのですが、スイーツやチョコレートなど美味しいと思ったものを本当に美味しそうに食べる姿を見ると、私が幸せになれます。
ちょっと今お互いを見つめ直そうかといった雰囲気になっていて…
チョコレートを今度プレゼントしようと思います。
ありがとうございます。

ゴディバとエッセイとリリーフランキーに驚いて

ニックネーム:Mako

ゴディバとエッセイとリリーフランキーに驚いて、すぐに読みました。おもしろかった!読みやすく長さもちょうどいい。控えめな人が喜ぶとオーバーリアクションの人より破壊力があります。子供から大人まで女性にチョコレートをあげるとパッと顔が明るくなる事が多い。最後も暗い終わり方があまり好きではないので、さらっとしていて、でも少し考えさせられる感じで良かった。

僕と彼女とチョコレートの日常にほっこり

ニックネーム:キキ

僕と彼女とチョコレートの日常にほっこりしました。
何気ない日常にチョコレートが登場すると、パァァと明るくなるのです。
夫からチョコレートを貰ったのは随分前ですが、今も私の買ったチョコレートを一緒に摘んでいます。
結婚記念日にゴールドコレクションをパカっと開けて頂きたいなぁ(笑)

リリーさんの丁寧な文調も相まって

ニックネーム:こんまのりと

リリーさんの丁寧な文調も相まって、胸がぎゅっとなるような切なく、それこそチョコレートのような甘さも感じるショートストーリーでした。
まるで宝石箱のようなゴディバのチョコレートは、私の亡くなった母も、作中の彼女のように嬉しそうにそっと一粒ずつ食べていたのを思い出しました。
素敵ないい作品をありがとうございました。

GODIVAのチョコレートをほおばった時のように

ニックネーム:たんたん

GODIVAのチョコレートをほおばった時のように、ゆっくり、じんわり、幸せな気持ちがこみ上げました。リリー・フランキーさんの紡ぐ言葉から、「彼女」の恍惚とした表情が思い浮かぶようです。そして、「言葉はいつも、後悔や、悲しみの種になる。それは足りていても、足りていなくても。」という一文は、じっくりと反芻したいフレーズです。

何気ない日常が

ニックネーム:katorint

何気ない日常が、ある1つのもので、新鮮になる。
停滞していた人生が、急に動き出す。
ありきたりなお話ですが、きっかけさえあれば、大切なものが見つけられる事を、改めて感じさせられるエッセイでした。

あまりにエモーショナルで涙が溢れました。

ニックネーム:し

読み終わり、あまりにエモーショナルで涙が溢れました。
"言葉はいつも、後悔や、悲しみの種になる。それは足りていても、足りていなくても。"
本当にその通りだと思います。
だけれど言葉だけでなく、行動で、チョコレートを通して沢山の愛を渡してくれるリリーさん、、素敵です。
チョコレートを毎日食べているのを秘密にしてた彼女さんも可愛い。何度も読ませて頂きたいエッセイでした、、

こんな素敵な作品が無料で読めるなんて

ニックネーム:うさぎもち

リリー・フランキーさんのこんな素敵な作品が無料で読めるなんて、ちょっと驚きでした。
読んだ後、彼女はどのチョコレートを食べたんだろうと気になってしまいました。
次回の西加奈子さんの作品も楽しみです。

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応募期間
2023年8月29日(火)~2024年3月28日(木)12:00

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