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Chocolate Days エッセイ「そのふたを開けるとき」森 絵都

そのふたを開けるとき

森 絵都

 そっとふたをつかむ。軽く浮かせる。中はまだ見えない。なのに、この瞬間からもう始まっている。鼻をくすぐる甘い、まろやかな香り。ふたを上げるほどにそれは広がり、またたく間に全身がとろりとなる。中身が姿をあらわしたときには、カカオの海に呑まれている。
 最初のひと粒を選ぶ権利は譲っても、チョコレートのふたを開ける役得を、私はけっして誰にも渡したくない。

 ふたがあるからには、それは、箱に入っているのである。
 箱入りの高級チョコレート。昭和40年代前半に生まれ、おやつはもっぱら近所の駄菓子屋で調達していた私が、そんな上等なものを初めて知ったのは一体いつのころだろう。
 明確な記憶はない。しかし、実物との出会いより、書物を介した認知のほうが先であったのはまちがいない。ふつうの板チョコとは明らかにちがうそれは、「チョコレート・ボンボン」などの名前でしばしば物語や雑誌に登場し、文字通りの甘い誘惑をふりまいていたのである。

 残念ながら、私が育った千葉の片田舎には、高級なお菓子を扱う店など存在しなかった。だからこそ、よけいに憧れた。一体どんな味がするのだろう? あの大きなひと粒ひと粒の中には何が入っているのだろう?
 想像するほどに夢はふくらみ、「それを食べたい」思いも募った。一方、夢は夢と割りきり、想像だけで満ち足りている自分もどこかにいた。田舎者には手の届かない雲の上のスイーツ。箱入りのチョコレートは私にとって伝説のユニコーンみたいなものだった。

 ところが、ある日突然、雲の上からそれが下りてきたのである。
 私が小学5、6年生のころだったろうか。父が仕事先からもらってきた手土産の品として、その箱は我が家の座卓に置かれた。事件だった。3歳上の姉と私は舞いあがった。小躍りのひとつもしたかもしれない。

「待ちなさい」
 と、しかし、勇む私たちに父は言った。
「洋酒が入っているのは、子どもには早い」
 これとこれ、ああ、これも大丈夫。さんざん焦らしたあと、父はようやくお眼鏡にかなった数粒を私たちの前に差しだした。
「まずはひとつずつ。好きなのを選びなさい」

父が仕事先からもらってきた手土産の品として、その箱は我が家の座卓に置かれた。事件だった。

 念願のそれがどんな味だったのか、今となってはおぼえていない。が、夢を現実にしたそのひと粒が、私にとって禁断の果実となったのは確かである。もはや想像だけでは満足できなくなった私は、再びあれを食べたいとリアルに願うようになった。父がもらってきてくれないのなら、いつかお金をためて自分で買おう。大人になったら、一番大きな箱を大人買いして、好きなだけ食べよう。洋酒が入っているのも食べよう、と。

 実際に大人になって知ったのは、「好きなだけ」というよりも「好きなとき」に上質なチョコレートを味わう歓びだ。仕事をひとつ終えたとき。友達を家に招いたとき。自分を元気にしたいとき。私はちょっと贅沢な箱入りを求めてデパートの地下を練り歩く。

 とりわけチョコレート選びに熱が入るのは、やはり年に一度のバレンタイン・シーズンだ。今年は夫にどれを贈ろうか。ひと月くらい前からそわそわしはじめて、迷った末に迎えたそれを冷蔵庫の奥に隠すと、なんだかますます落ちつかなくなる。2月14日が待ちきれない。大抵は誘惑に負け、3日くらい前に夫に持ちかける。

「少し早いけど、バレンタインにしようか」
「またか。いいよ、食べたいなら開ければ」

 私はいそいそとチョコレートをテーブルに運び、夫の代わりにやってあげている風を装って、箱を開ける至福のひとときを堪能するのである。

私はいそいそとチョコレートをテーブルに運び、夫の代わりにやってあげている風を装って、箱を開ける至福のひとときを堪能するのである。
森 絵都

撮影/酒井俊春

もり 絵都えと

1968年東京都生まれ。1990年『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞しデビュー、同作品で椋鳩十児童文学賞を受賞。以降、95年『宇宙のみなしご』で野間児童文芸新人賞、99年『カラフル』で産経児童出版文化賞、2003年『DIVE!!』で小学館児童出版文化賞、06年『風に舞いあがるビニールシート』で直木賞。17年『みかづき』で中央公論文芸賞などを受賞する。その他『クラスメイツ〈前期〉〈後期〉』『生まれかわりのポオ(絵/カシワイ )』『獣の夜』など、児童文学、エッセイ、小説を多数執筆。

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同じような経験があり、かなり読んでいて懐かしい気持ちになりました。

ニックネーム:チャモ

同じような経験があり、かなり読んでいて懐かしい気持ちになりました。
父親が会社の方からバレンタインでもらってきたゴディバのチョコレートを、小学2年生の頃に初めて食べたときの高揚感を思い出しました。
大学生になった今では、ただ食べるだけではなく、大切な人へのチョコレート選びの楽しさをも感じてゴディバのチョコレートを選ばせていただいております。
三作にわたる素敵な連載ありがとうございました。

チョコレートの箱を開ける瞬間に幸せを感じる。

ニックネーム:しんママ

チョコレートの箱を開ける瞬間に幸せを感じる。とてもよく分かります。私もフタを開けてきれいに並んだチョコレートを見るのが好きです。森さんと近い年代なので、小学生の頃の高級チョコレートとの出会いの話にも親近感を持ちました。私もお土産でいただいた高級チョコレートに感動したのが、そんな年頃。ご主人へのプレゼントを3日前に開けてしまうという話も楽しいですね。読んでいたらチョコレートが食べたくなりました。

箱入りのチョコレートへの思い、箱を開ける昔と今

ニックネーム:ベルギーに一度行ってみたい

箱入りのチョコレートへの思い、箱を開ける昔と今、私も主人にプレゼントしたのに待てずに同じようなこと、時々あります。。
まだ若い頃、ホワイトデーにGODIVAの大きな箱入りを父におねだりしたことがありました。娘に甘いとは言っても、流石に高級なチョコは無理かなと考えていたある日、父が"チョコレート買ってきたよ“と箱入りチョコを「お母さんには内緒だからね」とこっそりくれました。娘に甘やかしたのを父が叱られないよう母にはなんとなくごまかし(母は贅沢していること気づいていましたが)、家族皆で頂きました。毎回箱を開ける時のトキメキを今でも思い出します。 感謝の気持ちを込めて、今は実家の両親にGODIVAのチョコレートを選んで届けています。

チョコレートの箱を開けるときの鼻腔をくすぐる豊かな香り

ニックネーム:ちいは

チョコレートの箱を開けるときの鼻腔をくすぐる豊かな香りと、箱の中で粒が揺れる音、蓋が空いて目に飛び込んでくる洗練されたチョコレートの色と形、「落とさないように」チョコレートを指で大切に摘むときの感触、舌の上にのせて、じんわりとしっとりと口の中に広がる極上の味。文章を読んでいると、五感でチョコレートを嗜む瞬間を実に具体的に思い出すことができました。
また、子どもの頃は食べることが出来なかったお酒入りのチョコレート、ビターチョコレートの美味しさを知ったあの日の優越感を追体験しているような気持ちになれました。

目の前にチョコレートはないはずなのに

ニックネーム:サックリさとちゃん

目の前にチョコレートはないはずなのに頭の中には情景が鮮明に映し出されるくらい素敵な文章でした。
『実際に大人になって知ったのは、「好きなだけ」というよりも「好きなとき」に上質なチョコレートを味わう歓びだ。』この部分が大いに共感できました。
幼い頃はアソートパックのチョコレートでも大喜びして、「食べすぎ!」と怒られたりお客様用のチョコレートをこっそり食べてまた怒られたりしていたことを思い出しました。
今では良いことがあったときや落ち込むことがあったときなど、まさに自分の食べたいタイミングで好きなように食べています。元気がないときに食べるチョコに元気づけられたことも何度もあります。
部屋で1人美味しいチョコレートを誰にも邪魔されず食べる歓びは何ものにも代えがたいです。
チョコレート大好きな私にとって、チョコレートは生きていくうえで欠かせないものです。

本当に、箱入りのチョコレートには開ける前から

ニックネーム:千夜子

本当に、箱入りのチョコレートには開ける前からワクワクドキドキが入っているのがわかりました。そんな子供時代。
年末に祖父母の家に行くと、お歳暮で贈られた品が仏壇前にたくさんありました。ばあちゃんに一言断り、中身がチョコレートであろう箱を探し出します。包装紙の感じからして多分これ!ぴりぴりぴりと包装紙を剥がし現れた金色の四角い缶。甘い香りがぷわあと漂います。やっぱりチョコレートだ!たくさん入ってるやつ!丁寧に缶を開けると、粒の揃ったチョコレート達。思わず数を確認。目を閉じて、たまたま手に取った一つから口に入れてみます。ミルクチョコとキャラメルの柔らかさが口の中で混ざり合い、オセイボの高級なチョコレートの味だ、としみじみ思うのでした。あの頃からずっとチョコレートが好きです。久々にあの頃を思い出しました

チョコレートの缶を開ける時のワクワク、ドキドキ感

ニックネーム:桜月夜

チョコレートの缶を開ける時のワクワク、ドキドキ感。幾つになっても思う気持ち。缶の中身は、もうわかっているのに。缶の蓋を開ける権利を誰にも渡したくない気持ちに同感しました。子供時代には、今のように沢山のチョコレートがあるわけもなく、大人になって自由に選ぶ事が出来るようになり、バレンタインデー近くになると、今年はどれにしようか?と悩む自分がいます。大人の密やかな楽しみ。エッセイを読みまだ開封してないGODIVAのチョコレート缶を開けたくなりました